子どもなんて野放図でいい

子どもなんてものは、最後の一線さえ踏み外さないよう親が気をつけていれば、あとは基本「野放図」でいいと思う。逆に云えば、人間が野放図でいられる時代なんてのは幼少期しかないのである。自分もそういうふうに過ごしてきたし(野放図すぎて何度か死にかけたこともあったが)、周囲の友達連中も似たり寄ったりだった。

ところが子どもの現役から退いてずいぶん経ってから現状を見聞きしてみると、そうした状況は全盛期の遺物的な存在になっているんだという。小学校時代は「良い中学に入るための準備期間」、中学校時代は「良い高校に入るための準備期間」、高校時代は「良い大学に入るための準備期間」、大学時代は「良い企業に入るための準備期間」であって、これでは野放図に過ごす余裕なんかあったもんじゃない。

こうした図式が「普通」になってしまった背景には、「大手企業」が牛耳るようなってしまった世の中がある。学校とは「社会に有益な人間を育てる機関」だったはずなのに、いつの間にか「企業にとって有用な人間を育てる機関」になってしまった感じ。なんともはや気色悪い。

人は、誰でも何らかのジャンルで頑張りさえすれば、何らかの形で社会の役に立てると思う。だが、誰でもが企業に有用になれるわけではない。個人業種だからこそ才能を開花させられる人も大勢いるし、そういう人はえてして企業人としてはポンコツだったりすることが多いのだ(僕はまさにその典型)。

子ども時代には子ども時代にしかできないことが色々あって、大人になってからそれを挽回することは至難の業だ。だからこそできるだけ野放図に過ごさせてあげてほしいし、わが子を野放図に過ごさせてやれるだけの心の余裕を、親も持てるようにさせてあげたいのである。このあたりは、果たしてどのくらいの人たちが共感してくれるかどうかにかかってくるわけだが、共感してくれるのは、きっと野放図な幼少期を過ごしてきた人たちであると思うのである。

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