おちょこにバケツの水は入りません

どんな人にも「自己愛」の本能があって、「自分を愛するための行為」にふける傾向にある。「自分の愛し方」には様々な種類があって、「美を追求する」人もいれば「学歴を高める」人もいる。しかし、僕の周囲で「多いなァ」と感じるのは「社会的地位を欲する」人である。

ここでいう「社会的地位」とは、昔の人が欲しがった「社長のイス」とかではない。そうした「実業」的な意味あいでの社会的地位を求めるのは、ある意味「健全」な心理であると思うのだ。ところが、僕の目に「不健全」に映る「ステータス欲求」というのがあり、それは「社会運動でのリーダーシップをとること」だ。

おなじ「社会運動でのリーダーシップ」でも、たとえば「町内清掃の責任者」くらいならば問題ないと思うのだが、そこにアイデンティティを見出そうとする人というのは身近な事柄なんかじゃ全然満足しない。より大規模で、マスコミが取材に来るようなプロジェクトの指揮をとらなければ達成感を得られないのである。

そこまでの規模になってしまうと、かかるプレッシャーは並大抵のものでないし、時間だって自由になりにくくなる。つまり「得するようなことはほとんど無い」のが現状なのだが、それでもその座(名声)に執着する人間のいかに多いことか・・・。

「座に執着する」という時点ですでに「器がたいしてデカくない」ということが明らかなのだから、分不相応な夢からは早く醒めたほうが幸福というものである。ところが「自分が一般庶民だなんて事実は受け入れたくない!」という人というのはそうはいかない。おのれの器量(キャパシティ)というのを極端に見誤っているから、とうてい収まりきれないような任務を自分に課して、やがて崩壊していくのである。

自己愛もいいが、それに耽る前にまずは自分の姿を鏡に映してみることが大切である。「器」としての自分が果たして「おちょこ」なのか、「コップ」なのか、「ボウル」なのか、「鍋」なのか、「バケツ」なのか・・・そこを冷静に見極めたうえで、初めて的確な行動がとれると思うのだ。

僕の見てきた範囲で云うならば、おかしくなってやがて崩壊していくのは「おちょこにバケツ一杯分の水を入れようとする」ような人である。自分がおちょこだと認めるのは辛いかも知れないが、ムチャして壊れてしまうよりはマシなんで、受け入れようではありませんか。

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