世界一狂ったコトバ「自粛せよ」

世の中にはおかしなものが山ほどあるが、その中でも最たるものは「自粛せよ」というコトバである。「自粛」というのは「純然たる自己判断の結果として行動や態度を慎むこと」であると僕は認識しているんだが、これって間違いなんですかね?

それが外圧の結果であるのならば、もはや自粛ではなく「他粛」なわけだが、これが昨今はホントに多い。というか、いま自粛と呼ばれているもののほとんど全てがこの他粛のほうなのである。デカいところではテレビ業界の「自主規制」というのがそうだし、SNSの「炎上」なんかは「他粛圧力」を行使した結果に起こるものだ。個人が発したホンネに対して「そんな不謹慎なことを云うな! 自粛せよ」といったプレッシャーがかけられるのである。

戦前や戦中の国内はまさしく他粛圧力だらけで、国家にとって不利益になる(と思われていた)ことは一切「云うな」「思うな」「考えるな」「書(描)くな」「伝えるな」という空気が世の中に充満していた。だから終戦を迎えた時も「戦いに敗けた悔しさ」よりも「他粛圧力から解放された喜び」のほうが勝っていて、国を挙げての「転向」があれほどスムーズに進んだのだろうと僕は思っている。

そうやって日本人は他粛圧力から解き放たれて安堵したはずなのに、いつの間にやらそれは復活し、あまつさえ「国民同士がプレッシャーをかけ合う」ような異常事態に陥ってしまっている。なんでだろ、とつくづく不思議に思う。日本人というは「手かせ足かせをはめられて虐げられる」ことに喜びを感じるドM国民なんだろうか?

あるいは「他粛からの解放」というのが「革命などを起こして勝ち得たもの」でなく、「敗戦の副産物として棚ボタ式に入手してしまったもの」だからだろうか。つまり「タダで貰ったものだからアリガタミが涌かない」というわけだ。

市民系の人たちは日本の右傾化というのをしきりに危惧するが、真に恒久平和を祈念するのであれば、自分たちのコミュニティ内にも確かに存在する「他粛圧力」のほうをなんとかするべきだろう。「自粛せよ!」というのが常軌を逸したコトバであることを自覚していかなかったら、他粛が明確な「命令」に格上げ(?)される日も遠くない気がするのである。

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