ある程度までの「差別意識」は仕方ないけれども

人は人である限り、「先入観」に基づいてものを考え、「偏見」というフィルターを通してものを見ることからは逃れられない。また「価値基準」というのを持っている以上、「良いと思うもの」と「悪いと感じるもの」とを選別し、そこに「差」をつけることも当然のことだ(たとえばイシハラシンタローが嫌いな人は、シンタローが何を云ってもほぼ批判する)。だから一定数の「差別」が生まれるのは理の当然であり、僕にしても「自分が他者にしている程度の差別」であれば、他者からされても甘受するようにしているのだ。

とはいえ、「極端に悪質な差別」というのはやっぱり是正すべき問題である。その人の生活権をおびやかすような差別行為がなされているのだとしたら、これはやはりどうにかしなくてはならない。日本が「文化国家」であるとするのなら。

いつの時代も「度の過ぎる差別をするヒトたち」というのが世の中には一定数いて、そうした人種が発生する原因を考えてみると、要は「親からの『負の遺産』の伝承」ということなんだろうと思う。親が家庭内でツマラナイことを口にすると、子どもの中に、持たなくてもいいような「差別のタネ」というのが生じるのだ。

世間というのはまったくもって口さがないもので、悪意の養分を四方八方に降り注いだりする。親から差別のタネを植え付けられた子どもがそれを受けると、タネはどんどん成長していく。こうした「ネガティヴの連鎖」の果てが、昨今の「ヘイトなんたら」の動きなのだろうと思う。

こうした際限なき地獄絵図を解消するためには「親(大人)は子どもの前でツマランことを口にしない」ことと、「悪意の空気を世間に蔓延させない」ことが必須である。しかし後者は「政治の怠慢や失敗」から生まれるものだから、そう簡単には解消できるものではない。誰もが「フツーに働けばフツーに生きていける」ような世の中が実現されれば、一億総「魔太郎がくる!」みたいな怨み社会も終わると思うんだけどなァ。

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