反権力の権力化

ミイラ取りがミイラになる、とはよくぞ云ったもので、その手の例は枚挙にいとまがない。中でも多いのが「反権力者(団体)が権力化する」という奴である。これは「政党」でも「宗教」でも「市民団体」でも「マイノリティ運動」でも例外がなく、お金や人数が集まってくるにつれて精神や思考の均衡が保ちにくくなってくる。

主流と反主流の差なんてホントにわずかなモンでしかなく、潮目がちょっと変わるだけで簡単に逆転したりする。まァ、人間の定めたもの(こと)に「絶対的な真理」なんてのはないわけだから、それは仕方ないことなのだけれど、いざ逆転したときに人格まで豹変してしまうような人は困るやね。

自由や多様性を標榜する団体のエライさんが強者性を振りかざしたり、「ジブンのところに挨拶がない!」とキリキリしたりする様子を色々と見てきたが、まァ醜悪なことよ。というか、「権力打倒!」とか叫んでる人の多くは、べつに権力そのものを打倒したいわけではなく、単に「自分たちの対抗勢力に権力が渡っていること」に腹が立っているだけのような気がするのだ。

権力に蹂躙されてきた人は、自分をさいなむ力に反感を抱くと同時に、その強大さに憧れを抱いたりするものである。だから僕は「極端に不幸な過去」を全面に出しすぎる人がやっている運動のたぐいには警戒心を抱くし、嫌味や皮肉のひとつも云うことにする。

権威や権力といったものは、どこかから奪い取っても、またじきに誰かに奪い去られてしまうものなのだ。それは不毛な椅子取りゲームみたいなもので、精神をいたずらに消耗するだけである。嫌なことをあえて口にして冷や水をぶっかけてやることも優しさの一種なんですヨ。

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