失って「大切さが判るモノ」と「無意味さが判るモノ」

「親孝行したいときに親はなし」なんてフレーズもあるように、「失って初めて大切さが身にしみて判る存在」というのが世の中にはある。それは僕もこれまでの人生の中で痛感してきたものである。その一方で、「失ってみて『な~んだ、たいして必要じゃなかったのか』と判ったモノ」もたくさんある。

「昔はなくても痛痒を感じなかったアイテムやシステム」なんかはまさにそれで、「壊れたのを機に使うのをやめたが、特に不自由はなかった」なんてモノはいくらでもある。たとえば僕はもう10年近くも鍋とガスの火でご飯を炊いているのだが、それは当初は「炊飯器が壊れたので代用に」としてだったが、使いはじめたら「これはこれでいーじゃん」ということが判ったので、以来、炊飯器は買っていない。

僕は「脱原発」を願う人間だが、それを単なる「お題目」にしないためには、われわれ国民が「失って大切さが判るモノと、無意味さが判るモノ」の仕分けをすることだと思うのである。僕の経験では「失ってみて『な~んだ、たいして必要じゃなかったのか』と判ったモノ」というのは、たいてい「電気で動くもの」だ。それらと「自らの意志で」訣別することが出来れば、原発温存派の鼻をあかすことがきっとできると思うのだけれどもネ。

ちなみに今迷っているのは「ウォシュレット」である。絶対なければ困るものじゃないので、もし壊れたらそのままにしようかとは思うのだが、あれの使い心地には麻薬的な常習性があるからなァ・・・う~~む・・・。

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