東京脱出バナー

竜超に「脱・東京」を思い立たせたのは、2011年3月の「東日本大震災」でした。
あの時に、心の底から「怖ッ!」と感じさせられた事柄があって、それが自分の中の「非常脱出ボタン」を押したのです。

俺に怖さを感じさせたのは、多くの人たちを怖れさせた「放射能」ではありません。
それを脅威と思ったのであれば、もうとっくの昔に列島の西側へ避難しているでしょう。
俺は「原発のリスク」については、東日本大震災のずっと以前から、世間一般とはちょっと違った考えを持っていました。
子どもの時分にすでに、ある種の「諦観の境地」に達していた……と言ってもいいかもしれません。

俺が生まれ育った静岡県は、「原発/核/放射能」とは因縁浅からぬ地です。
遠州灘に面した御前崎市には「浜岡原子力発電所」があります。
また、アメリカの水爆実験に巻き込まれて「広島、長崎に続く第三の原子力被害」と呼ばれる惨状を呈した「第五福竜丸」は、母の生家のある焼津市の漁船でした。
そこへもってきて、「東海大震災が明日あってもおかしくない」と言われ続けている「地震ハイリスク地域」でもあったため、10歳になった頃にはもう、
「地震で原発が破壊された際、果たしてどのくらいの放射能被害を受けるんだろうか?」
ということを子どもなりに真剣に考えるようになりました。

福島の事故後、「原発は安全だという言葉を信じてたのに、裏切られた!」という声があちこちで上がりました。
でも、物心ついた頃から第五福竜丸の話だとかを聞き続けてきた俺の場合、「原発が安全なもの」だなんて、ただの一度も思ったことがありません。
にもかかわらず、少年時代の俺は「原発反対派」の道は歩みませんでした。
当時の俺は「チビッコ新自由主義者」だったからです。
「日本が『世界トップレベルの金持ち国』であり続けるためには、原子力による『安定的かつ大量の電力供給』が不可欠である」
こんなふうに考え、子どもながらに原発のことを「必要悪」として「割り切る」ことに決めていました。

割り切ると同時に、「万一の場合」のことも想定していました。
「もしも大地震で原発が壊れて放射能がばらまかれることがあったら、そのときは『原発由来の豊かさを享受してきたツケが回ってきたのだ』と思って、あきらめよう」
幼いながらも、こういうふうに腹をくくっていたのです。
現在は、当時の「新自由主義信奉」からは真逆の立場にある俺ですが、この「自業自得だ。もしもの場合でもジタバタはすまい」という覚悟だけは変わらず抱き続けています。

もちろん、それは俺が「勝手気ままな子ナシ独身」だから思えることで、もしも「年端もいかない息子や娘」だとかがいたら、気持ちは全然違うでしょう。
たぶん「この子をどうやって生かそうか」と必死に考え、とった行動は大きく異なっていたと思います。
また、「それまでの日常」を根こそぎ奪われてしまった被災地の方々から見れば、「安全地帯から高見の見物を決め込んでいるノーテンキ小市民の戯言」としか映らないでしょう。

いや、実際にその通りです。
でも、哀しいかな人間というのは、大統領だろうが万引き犯だろうが「ごく限られた視野」でしか世間を見ることができません。
逆立ちしたって「神の視点」に立つことはできないのです。
なので、ここではあえて「どーせ矮小な存在さ!」と開き直り、「独断と偏見に基づく極私的考察」で突っ走らせていただきます。

竜超を「脱・東京」に駆り立てたものに、話を戻しましょう。
「放射能被害が怖いんじゃないなら、『地震そのもの』が怖かったのか?」
こう思われる方が多いでしょうが、それも「NO」なんです。

東日本大震災が起きたとき、俺はJR中央線「荻窪駅」近くのブックオフにいました。
その店は1階で、しかも堅牢なビルの中にあるので、さほど揺れることはありませんでした。
そのため、「揺れてる時間がいつもより長いなぁ」とは思ったものの、特別「揺れが大きい」とは感じなかったのです。

店内では、乱雑に棚差しされていた雑誌だけは床に落ちましたが、それ以外は無事で、だから俺も含めて慌てる客はほとんどいませんでした。
揺れが収まると、客はまた本の物色に戻りましたし、俺も地震前から抱えていた品をレジに持っていったのです(下がそのときのレシート)。

ブックオフ

店を出て、「あんな長いこと揺れたんだから、電車は当分動かないだろうな」と思いましたが、ここでも特にアセりはしませんでした。
その日はもともと荻窪から、道なりに古本屋を覗きながら歩いて帰る予定だったのです。

……が。
歩き出して数分経ったあたりで、街の様子がいつもと違うことに気づきました。
床屋のおかみさんが近所の独居高齢者宅へ駆けつけ、
「お婆ちゃん、大丈夫だった!? 怖かったらウチに来てもいいのよ」
と声かけしている姿を見て、生来のノンキ者の俺でもさすがに「これは変だ」と感じたのです。
あわててワンセグでテレビ情報をチェックしたところ、どの局でも通常放送を打ち切って、ニュース特番を流していました。
そこでようやく「先ほどの地震が未曽有の規模のもので、中でも東北地方が甚大な被害を受けている」ということを知ったのです。

人間とはホント現金なもので、「地震が大きなものだった」と分かるや、自宅マンションや仕事場のアパート(『薔薇族』の制作を行なっている「野ばら浪漫舎」)がどんな状況になっているのか、急に心配になってきました。

予定していた古本屋まわりを中止して急ぎ足で家へ向かった俺が小一時間後、自宅内で見たものは……予想に反して「出かけた時と何ら変わっていない」室内でした。
きっとメチャメチャに崩れているだろう、と覚悟していた「アフリカの蟻塚のごとく積み上がった本の山々」は全て無事。
隣駅にある仕事場のほうも自宅と同様に無傷で、よくよく確認してみたら、棚の上に乗っけておいた帽子がひとつ床に落ちているのを発見しました。

俺の自宅も仕事場も「新宿区」にあるんですが、ここは地震に比較的強いエリアのようです。
関東大震災の時も被害が少なく、新宿駅前の紀伊国屋書店そばに現在もある「中村屋」は、夜通しパンを焼いて被災地区の人々を支援したといいます。
おなじ新宿でも「高層ビルの上層階」などは、例の「低周波地震動」の影響でかなり揺れたわけですが、俺の家や仕事場はどちらも低層階なので、今回も事なきを得たようでした。

話がそれますが、野ばら浪漫舎は「作業場」であると同時に、「仲間のたまり場」でもあります。
その前身は、2009年に友人知人4人の共同出資で杉並区内に開いた「高円寺NOHOHON」というコミュニティスペースです。
そこは「誰の家でもない我が家」というコンセプトのもと、「呑み屋に行ける余裕が無い人や、対人スキルに自信がなくて行き場に窮している人でも気軽に来てダベれる場所」を目指しました。

けれども「共同運営」というのはやっぱり難しく、高円寺NOHOHONは1年も経たずに閉鎖となったのです。
こういう場を複数でまわしていく場合は、各人の「出す金額」も「使う時間」もキッチリ決めて管理できないとダメなのだと、この時に学びました。
高円寺NOHOHONの閉鎖後、俺は「メリットもデメリットも全て自分で引き受ける」という覚悟で、新しい場を単独で開くことにしたのです。
それが、2010年3月にいた「野ばら浪漫舎」というわけなのであります。

本当に偶然なのですが、震災当日、野ばら浪漫舎では月イチの「夕食会」を開催予定でした。
荻窪に出かける前、朝のうちに大量のカレーを仕込んでいたのですが、当然ながら夕食会は中止になりました。
翌日、参加予定だった人たちから行けなかったことを詫びるメールが入るたびに、俺は「日曜に仕切り直すので、気が向いたら食べに来てよ」と返信しました。
すると日曜の夜、参加者が友達を同伴してきたり、普段あまり来ない人が不意に顔を出したりして、なんと当初の予定の倍以上の人数が集まったのです。

まだ余震の頻発期で電車のダイヤも乱れがちなのに、わりと遠くから来た人もいたりして「……なんで?」と一瞬、首を傾げたりもしましたが、
「いや、こんな時期だったからこそ集まったんだな」
と、すぐに納得しました。
やはりみんな、「先行き不透明な状況の中、独りきりで部屋にいるのは不安」なんでしょう。
「高円寺の失敗で懲りてないのかよ。しかも今度は単独運営なんて、正気の沙汰じゃないね」
野ばら浪漫舎を開こうと決めた時、こういったことを言われたりもしましたが、この夕食会を通じて「やはりコミュニティスペースは必要だよなぁ」と、改めて感じたのでありました。

その2日後、行きつけのスーパーを訪れた俺は、心の底から「怖ッ!」と思わさせられるものと出会ったのでありますが……それについては次回、後編で。

421cv

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