東京脱出バナー

震災から4日後、いつものスーパーへいつものように買い物に出かけたら、いつもは見られない入場待ちの列ができていました。
それは、マトモに並んだらいつになったら入れるか分からないほどの大行列です。
早々に入店をあきらめて別のスーパーに行ったところ、こちらには列はできておらず、いつも通りに入ることができました。

しかし、野菜売り場の品揃えは「目を疑うような貧相さ」で、なぜだか「キャベツ」ばかりがテンコ盛りになっていました。
そのキャベツを次々と、鬼のような形相で買物カゴに放り込んでいたのは、70過ぎくらいと思しきジーサンです。
彼がゲットしている数は、軽く10個を超えていました。

「このジーサンはなぜに尋常でない数のキャベツを買い込もうとしているのだろう?」
俺の脳裏に浮かんだ「可能性」は次の4つでした。
(1)お好み焼き屋、もしくは「キャベツ食べ放題のトンカツ屋」を経営している。
(2)自宅に馬を飼っている。
(3)毎日キャベツを10数個食わないと生きられない体質である。
(4)買い占め。
まぁ、たぶん(4)だったんでしょうね。

でも、ニュースを観ると、どうやら「買い占めに走った客」はこのジーサンだけではなかったようです。
都内各地のスーパーで食品や日用品を買い占め行為が相次いでおり、ウチの近所で言うなら「米」と「トイレットペーパー」がどこの店でも見当たらなくなっていました。

「長蛇の列」とか「買い占め行為」といった異常な状況にスーパーを陥れているのは、「誰が流したのか分からないウワサ」でした。
「地震のせいで小売店への物流ルートに支障が生じ、食品や日用品が満足に入荷しなくなっているらしい」
このようなことがまことしやかに囁かれていましたが、まぁデマもいいところですね。

俺は朝早くからバイトへ行く関係で、午前5時くらいのコンビニに入るんですが、その時間の店の棚は「震災前となんら変わらない状況」なんです。
東京に関して言えば、「物流が震災の影響を被っている」なんて風には、とうてい見えません。
要するに、「商品は早朝いつも通りに入荷するんだけど、8時、9時になると買い占め組が押し寄せて棚がガラガラになり、後でそれを見た人が『やっぱ物流がヤバいんだ!』とアセってデマを肥大化させている」わけですね。

70年代のオイルショック時に起きた「トイレットペーパー買い占め騒動」も、発端は「慌て者の勘違い」だったと聞いていますが、今回もそのパターンなのでしょう。
俺が見たジーサンもたぶん「慌て者陣営」の一員で、「ある時に買い占めておかないと、手に入らなくなるかもしれない」とアセるあまり、カートの上にキャベツの山を築いたのでしょう。

「めぼしい品がキャベツくらいしかない」という状況下でのあの買い方は「人間性を疑わせるもの」ではありますが、だからといってジーさんを責める気にはなりませんでした。
悪いのは「ジーさん個人」ではなく、「流通というシステムにすがってしか生きられない消費者の弱さ」なのだと思うからです。
それは「東京人の弱さ」と言い換えてもいいでしょう。

「日本最大の人口」と「潤沢な税収」を誇る首都の住人がなぜ「弱い」のか?
その理由は、「物流が正常に機能している」という前提でしか生きられない存在だからです。
流通システムの末端につながれ、日々の暮らしに必要な一切合切を「金を出して買う」という方法でしか入手できない、「消費者」と言う名の弱者。

たとえばジーサンちの裏庭に畑があって、そこで大根でも育てていたとしたら、彼もあそこまでなりふり構わぬ行動はとらなかったでしょう。
「スーパーが品薄になるってウワサが流れてるが、まぁウチには大根があるから、当面はそれを食ってしのごうや」
こんな風に鷹揚に考えられ、「さすがは年の功だね」と言われるような態度がとれたかもしれません。

しかし御存知のように、東京の庶民で「畑を作れるほどの庭の持ち主」なんて、そうそういるもんじゃない。
たとえば俺にしたって「家が狭すぎてベランダ菜園すら作れない」のです。
つまりキャベツのジーサンも俺も「消費行為しかできない身分」という点においては同類で、両者の違いはただ「デマに踊らされたか、踊らされなかったかの差」しかないのです(都心の住人でも下の画像のように「自宅裏の畑」を持てる人もいますが、まぁこれは例外中の例外ですね)。

裏の畑

こうした危うい状況から脱するためには、「物流にすがらざるをえない自分」を変えなければなりません。
要するに、生きていくうえで不可欠なものの何割かを「自給」できるようになる必要があるわけです。

話がちょっとそれますが、「3・11を体験したことによって、ひょっとしたら東京は『変わる』のではないか?」と、俺は密かに期待していました。

多くの人が「高層階の激しい揺れ」に恐れをなしたことで「やみくもに高いビルを際限なく建て続けること」に歯止めがかかるのではないか?

節電や計画停電を体験したことによって、面倒なことは何でもかんでも「電化」によって解決しようとする「メガ電力消費社会」の是非を、都民が議論するようになるのではないか?

福島からの送電が絶たれたことで、真夜中でもキンキラキンキラ光を発し続けていた街が「夜本来の暗さと静けさ」を取り戻す姿を見ながら、俺はこんなことを考えていたのです。
ただ、残念ながら、その期待はあっという間に破られました。
「もうあんな怖い目に遭うのはイヤ。これからは地面にしっかり足を着けて暮らしたいわ」
憔悴しきった顔で、こんな風にテレビのインタビューに応えていた「高層階住まいのオバサマ」とかが確かにいたはずなのに、喉元過ぎればナントヤラです。
地震の記憶が薄れてくるや、またぞろタワーマンションの人気が復活しました。

また、電気エネルギーを毎秒膨大に消費していく巨大商業施設も際限なく増えていきます。
「……嗚呼、やっぱココの人たちは変わんないわ」
世間の様子を見ながら、俺はため息をつきました。
そして思ったのです。
「もし、こういう街で直下型地震とかに遭ったら『地震そのもの』ではなく、『地震後の情勢不安』のほうに殺されるかもしれないな……」

東京というのは、日本でも有数の「セカセカした街」です。
これについては自分も例外ではなく、大きな口はたたけないのですが、街を支配する「常に何かに急かされている空気」に人々が取り込まれ、脳内に「殺伐さ」を埋め込まれている気がします。
殺伐さは「余裕のなさ」の産物で、それは有事の際には「過剰な防衛本能」を発動し、「自分の平和を脅かしそうな存在への攻撃」につながります。

70年代の特撮ドラマ『帰ってきたウルトラマン』の第33話に「怪獣使いと少年」(脚本/上原正三、監督/東條昭平)というエピソードがあります。
それはザックリ言えば、「あいつは宇宙人ではないのか?」という疑心暗鬼に取りつかれた街の住人たちが、河原で暮らすみなしご少年をリンチにかける話です。
その作中に、こんな台詞がありました。
「日本人は美しい花を作る手を持ちながら、一旦その手に刃を持つと、どれだけ残虐きわまりない行為をすることか」

人が美しい花を作り続けるためには「穏やかな気持ちを担保し得る生活」が不可欠です。
でも、昨今の東京を見ていると、「ゆとり」なんてものとは物心両面で遠い気がします。
そんな危うい状況下で、もしも「地震」というクライシスに襲われたら、果たしてどれだけの人間が「平常心」というヤツを保てるものか。
日本の被災地ではこれまで起こらず世界から称賛を浴びた「大規模略奪行為」というのも、「東京に関してはかなりの確率で起こるのでは?」と俺は睨んでいます。

前出「怪獣使いと少年」の中で唯一の救いと感じられた存在が「パン屋のお姉さん」です。
パン屋のおかみさんの販売拒否に遭い、しょんぼりと帰っていく少年の後を、食パンを持ったお姉さんが追ってきます。
「はい」と食パンを差し出されても「同情なんてしてもらいたくないな」とそっぽを向く少年。
すると、お姉さんはこう言うのです。
「同情なんかしてないわ。売ってあげるだけよ。だって、うち、パン屋だもん」

いかがですか、これがまさに「平常心」というヤツですね。
異常な状況の中でも、周囲の暴力的ムードに飲み込まれることなく、かといって正義の味方ぶるわけでもなく、ただ「フツーに、いつも通りのことを行なう」というのは、できそうでできないものです。
このお姉さんのような「美しい花をいつでも作り続けられる人」が数多くいるのであれば、東京にいてもいいんですけどね。
でも、たぶん「刃を握ってしまう人」が圧倒的に多いと思うんです。
俺も立派な人間とかではないから、このまま東京に居続けたらその中に入ってしまいかねない。

だから、俺は出て行きたいんです。

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